本当に長文を書く力が衰えた。

あからさまにTwitterの影響と言っていい。140字の枠に収まる術を身に付けに身に付けすぎた。

 

それでもそれなりに年を重ねて、小学生の頃は(小学生の頃と比べるのは少々情けないが、少々じゃないか)400字の作文に頭を悩ませていたが、このブログのたったここまでの文字量だけで既にTwitterの1ツイートの規定値の140文字を超えているというから、まあ、年相応にはアウトプットに確度を求めるよう、ぐちゃぐちゃと言葉を貼っつけるようになったんだなといったところ。

 

で、長文を書く力が衰えた話だけど、衰えたというか、140字を書く力が発達しすぎた説も否めないんですよね。

この世の若者間のイケてるミームは短文を世に流すSNSなわけですけど(てしまの主観、しか無いけど)、もしそのヤングイケミームが長文を書く事だったら多分私もガンガン長文で面白い事書いて、逆に140字内に情報を収める力が今ほど無かったんじゃないかなと。

それで一方、多分論文のように読んだ本を参照として自分の考えている事に根拠を持たせつつ新しい事をいう文章が得意で、運良くそれがこの世の需要と合致してる人もこの世にいる。

生まれた世とかによって誰が役に立つ人材だとか落書きのような存在だとか相対的に変わるんじゃない?って論調に落とし所を見つけましたって話。参考文献なし。もう一歩踏み込めればもっと面白い話になりそうなのに、って悔しさなんとなしに有り。

 

兎角、世間に〜とか、大学内で〜とか、ネット上の大喜利界隈で〜とか、色々あるけど、面白さは絶対不可欠だなーと文書きながらも思いました。面白い事言ってるのを四年間の大学生活で一度も見た事がない人、私に合わなかっただけなのかマジのカスなのかわからないけど、テキトーいうと肯定とか否定って単語が最近この辺にキーとして働いてる気がしてならない。謎。面白さの正体も謎。みんなも考えて。それで私に「これかも」ってなったら教えて。てかこういう時に必要なのが参考文献って存在じゃね感も有り。なるほど。殺せ殺せ〜。

弾き語りしてますね、よく、広島市内のPARCO横あたりのイエスタデイとかあるあたりのトコで。

 

弾き語りって何なんでしょうか。

自分の曲の広報活動、ストレス発散、同じ趣味の仲間探し……、色々考えられますね。

ちなみに弾き語りの中でも私が最も疑問に思う存在は、人の曲を演ってる弾き語りの人です。

売れる為の自分の曲、又は自分の誰かに伝えなきゃおさまらない激情を言葉にした自作の曲、ならわかるのですが、何をどう考えて確実に本人より下手な演奏と歌唱力で人前で他人の曲を弾き語りしてるのか意味がわからん。仮に私がブックオフで自分で模写した自作の進撃の巨人第10巻を配りまわってたら間違いなく狂人扱いか警察沙汰です。いや自作の模写した漫画本配ってるオッさんいたら面白いけど、それ狂人由来の面白さだし。

人の曲を弾き語りする理由、おそらくは、「今この曲の気持ちです」か「この曲良くないですか」の二択の感情でそれをやっているのだと思うのだけれど、ダンボールに「今こういう気持ちです」って書いたものを首から下げて質の良いスピーカーで本人の当然プロが調整しマスタリングされた曲を流した方が効果としては高くないですか?

 

こんな事書いたら誰かからワンパン

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喰らいそうですが、人前で歌うという中々に高いハードルを超えているのに、なんで自分の言葉で気持ちを伝えないかワケがわからないんですね。いちご100%の7巻付近で真中が東城に自分の言葉で気持ちを伝えない時くらいワケわからん。しかし、ワケがわからないと言いましたが、一度だけですが、私は以前完璧に納得出来る他人の曲の弾き語りを見た事があるのです。

 

週末の流川で、ベロベロに酔っ払って、店の前で騒いだり、電柱に向かって吐いてるオッさんしかいない「エノラ・ゲイ、もっかい呼ぼかな?」と言いたくなってしまうような地獄に私はいました。そこへ、ギターを抱えた青年が現れケースを地面に置きました。青年が歌った曲は長渕剛の乾杯、しかも二回。とんぼも歌えよ、と思ったが、とにかく乾杯を歌う青年。すると、酒の力で財布の紐が緩みに緩みきった長渕剛直撃世代のオッさんたちがポイポイと紙のお金をケースに入れて行きます。「これか」と、私は思いました。金。数万円の金がたった二曲のライブで積み重なって行く。バンドマン(生活に占める割合の中で一番大きいものを言うならバンドマンではなくフリーターと呼ぶべき存在)、身内しか来ないハコよりココの方が稼げるぞ、と思わず脳内でつぶやきました。

 

と、言うわけで、私も流川で稼ぐべくアコギを始めました。お金目的という不純な動機のアコギな商売にはなりますが(\ドッ/)

 

そして、実際に自分で楽器を演奏してみて気付いたことは、たとえ人の曲のカバーであっても、素人の下手な演奏であっても、必ず演奏にはその人自身の個性が出てくるものなのだな、と思い、そもそも、真剣に何かを行う時に無意味な事があるのだろうか、真剣に物事に挑む時にそこに意味が宿るのだな、と学習しました。楽器はそのような人生の、大袈裟に言えば真理のようなものを理解するきっかけを与えてくれるツールのようなもので、それが尊ばれたからこの時代まで人と密接に関わり続けている文化足りえるのだな、とも思いました。そして、そのような文化の事を芸術と呼ぶのだな、と。

 

 

ごめんなさい。「そして、実際に〜」からの文章、全く心を込めずにとりあえずソレっぽくなればいいや、と思い適当に書いていました。今読み返したらあまりにフワフワした文章で見てられなかったので白状します。人の曲で演ってる弾き語りを擁護するのは心底ダルかった。人の曲で演ってる弾き語りはクソ。聴いてらんないし耳に入ってくるの不可避なの普通に街中のテロ。街中でやるな。宇品とかでやれ。

 

私がアコギを始めた話も真っ赤な嘘です。おやすみなさい。さようなら。

Twitterにも書きましたが、私が小学校5、6年次の時の担任はハンパじゃない体罰教師でした。女性の方でしたが。

 

得意技は、これもTwitterに書きましたが、ギャングースで言う所の『ワンパン』

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で、私の友人たちが後頭部をしたたかにコンクリの壁にぶつけられていた事を覚えています。私が刃牙のキャラクターでガイアが一番好きな理由は、あの時に先生からコンクリを効果的に暴力に転用する環境利用闘法を実戦で学んでいたからかもしれません。まあ、スペックの方が花山薫に対して近いことしてたけど。

ちなみに私も一度、頬を指で捕まれ、思いっきり左右に引っ張られ唇が裂けてダラダラ血が出た際に先生から「血は最初から出ていた」という言葉を賜り、この世は主観と客観、不可逆性は相対的と絶対的によって解釈が変わる事もあるのだな、と学んだ次第であります。

 

ここからはTwitterには書いていない事なのですが、私が中学生に上がった時にその体罰教師の住むマンションを友達が特定し、前世がヘビである恨み深い私(げんしけん斑目先輩をリスペクトしているので)は体罰教師の目が行き届いたひりひりとした空気のパノプティコン式のクラスから卒業して間もない、もちろん恨みのPowerが溜まりに溜まった少年だったので、当然、脅迫の手紙を書く事にしたのです。

 

脅迫の手紙には、これまでにされた体罰の内容、許していないという意思、10月26日に20万円を○○マンションの駐輪場の一番左に停めてあるライトグリーンの自転車のサドルのパイプの中に入れておけ、という三点をアナログに定規を用いて書き上げ、即日先生のマンションのポストに投函しました。

ちなみに10月26日は私の誕生日で当時の私にとっての大金、今の私にとっては大金である20万円を自分への誕生日プレゼントにしようと思っていたのですが、結局金はサドルになく、「なんっなん!?」と小声で吐き捨てて、サドルを地面に叩きつけてちゃんと元に戻したのを覚えています。

 

……

先生、あの時どんな気持ちでしたか。

今となっては、よくよく考えれば先生はほとんど新卒と変わらない年齢だったはずで、今の私の新卒で教師になった友達とほとんど同じ年齢の、翻せば今の私と変わらない年齢だったはずです。

先生、あの時どんな気持ちでしたか。中学生から金を脅迫される気持ち。小学生に『ワンパン』

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かました時の気持ち。逆にキレたガキ大将的ポジションの小学生男児からローキックをかまされた時の気持ち…………。

 

最近特に強く思います。子供だった時に不思議だった、理解出来なかった大人の年齢に自分が追いつき、この年齢になって不思議が解消された事、いまだに理解出来ない事。もしかして、今は理解出来ていることがもっと歳を重ねるにつれ逆に理解出来なくなったり、当然だと思ってた事が不思議になったりするのでしょうか。物事が主観だけで判断できるものではなく(主観で判断するしか無いのだけれど)、相対的に物事に対する考え方は変わっていく事は先生が私に教えてくれた事でした(体罰で)。

 

今でも嫌な先生だったな、20万円欲しいな、と考える時はありますが、真面目な話先生の思い出を糧にできるかできないかで人間としての成長度は違うと思うので、そういう事に気付かせてくれた点は感謝しています。

先生、もしもこのブログが偶然目に入り、何か思うところがあれば、マジで最近金なくてウケる✋😅ので20万円ください。

 

折に触れて____________

もみじ銀行紙屋町支店
支店番号802 普通0418678
テシマテツロウ

こんにちは。てしまです。

高校生の時以来にブログを開設しました。

ブログを開設した理由としては、友達に「やってみたら?」と言われたから。という短絡的な理由であります。

 

昔はSNSTwitterなどが「短いブログ」などと世間的に呼ばれていましたが、今ではブログが「文字の多いTwitter」と普遍的に思われているのではないでしょうか。

逆転現象ですね。

 

逆転現象といえば、最近大学三年生の時に制作した作品がゴミに埋もれた文机から出土しました。その作品は大学生をモチーフとしたカードゲームを媒体とした作品でした。一枚一枚の絵やデザインは全部自作の代物で、カードの絵を描いた人は私だけではないのですがカードのデザインの大筋は全て私が決めていました。当時各カードのビジュアルに対して「こんなもんだろう」と大筋は正解であるとの自負のもと制作を終えたことを覚えています。

しかし、そのカードの中の一つ、『院生のオタク』を見返してみると、そのデザインは“腐った緑色のゲロにメガネをつけただけのもの”という当時三年生の私の院生への偏見や印象が悪い形で具現化したものでした。逆転現象。今、私は修士課程の一年生、院生のオタクです。三年生の時の自分は二年後に自分が腐った緑色のゲロになる事を想像出来なかったのでしょうか。

この体験から、自分の予測や偏見はいつだって間違う可能性があり、根本的に誤りである事もあると学びました。

 

私はこのブログを書き綴る事で、後から読み返すことで過去の自分のまとまった考えを見返し、自分の誤りを探る手がかりに出来たらと思っています。

院生は緑色でもなければゲロでもないので。

腐ってはいるかもだけど。